チェルノブイリ事故後の旧ソ連医学者と日本の医学者(2)/ブログ:島薗進・宗教学とその周辺より〜続く
パレスチナ連帯・札幌 代表 松元保昭 さんから
----------------------
3・11事故直後から一貫して、「安全・安心」を説く放射線リスク専門家の言説
とそれを受け取る市民との食い違いを追及し続けてきた東京大学 の島 薗進氏
が、「チェルノブイリ事故後の旧ソ連 医学者と日本の医学者」と題してあらた
な連載を開始しました。著者の了解をえて紹介させていただきます。その(3)
は、しきい値あり論者イリーンの 350mSv基準の主張
名著:中川保雄『放射線被曝の歴史』に逸早く注目・紹介してきた氏が、「この
書物が対象としているのは1990年頃までであり、…その後の放 射線 健康影響・
防護の動向にどのように関わっているかについては述べられていない。…中川が
行ったような本格的な調査研究はとてもまねができないが、 それでも大いに参
考になる手頃な書物がいくつかある。」と、今日なを根強く横たわっている「安
全・安心」論の淵源にさかのぼっての解読に意欲 をの ぞかせています。
◆ブログ:島薗進・宗教学とその周辺より
http://shimazono.spinavi.net/
<ブログから島薗氏の追究履歴がわかります>
★放射性物質による健康被害の可能性について医学者はどう語っているか(2011
年3月23日)
★放射能による健康被害についての医学者、政府・自治体およびメディアの対応
(2011年4月)
★原発による健康被害の可能性と安全基準をめぐる情報開示と価値の葛藤(2011
年4月)
★福島県の学校の20mSv基準は適切か?──専門家・学者・ジャーナリストの自覚
(2011年5月)
★福島原発事故災害への日本学術会議の対応について(2011年5月)
★中川保雄『放射線被曝の歴史』に学ぶ(2011年7〜8月、3回)
★低線量被ばくリスクWG主査長瀧重信氏の科学論を批判する(2012年1月)
★日本の放射線影響・防護専門家がICRP以上の安全論に傾いてきた経緯
――ICRPの低線量被ばく基準を緩和しようという動きの担い手は誰か?――
(2012年2〜5月、8回)
★放射線のリスク・コミュニケーションと合意形成はなぜうまくいかないのか?
(2012年8〜9月、8回)
======以下、その(3)転載(改行あり)=====
■チェルノブイリ事故後の旧ソ連医学者と日本の医学者 ――イリーンと重松の連携
が3.11後の放射線対策にもたらしたもの―― (3)しきい値あり論者イリー
ンの350mSv基準の主張
2012年10月26日
イリーン『チェルノブイリ:虚偽と真実』の第4部では、イリーンが提唱した
「生涯最大被曝線量350mSv」基準をめぐる論争や政治的か けひきの 経緯に
ついて述べられている。それは主に1988年から89年にかけてのことだ。ところ
で、七沢潔『原発事故を問う』(岩波新書)の第4章に もチェルノブ イリ周辺
の89年の状況について叙述があり、そこでもイリーンが登場する。甲状腺がんが
出始めたこの段階でもソ連はなおできるだけ避難をさせ ない、補償を しない立
場に固執していた。その様子が描かれている。
「その根拠となったのは、イリイン・ソ連医学アカデミー副総裁が唱えた生涯
70年間に35レム(350mSv)までの被曝は許容される」と いう説であっ た。イリ
インは放射線医学の専門家としてこのころ、「汚染地帯の住民は避難しなくても
十分に安全である」と説明していた」。これに各地の住 民・科学者が反 発した。」
(2)で述べたように、イリーンは国連放射線影響委員会(UNSCEAR)
の権威を借りて、89年5月、生涯最大被曝線量350mSvの 基準を主 張した。こ
れはすでに『チェルノブイリ:虚偽と真実』第1部でふれられていたが、詳しい
叙述は同書第4部「放射線汚染地区の住民の移転方法に おける科学的 推奨と政
治的解決」に見られる。
この問題は88年に旧ソ連内で激しく論じ合われた。イリーンが掲げる生涯最大
被曝線量350mSv基準は、1平方キロ当たり40キュリー (1平方メート ルあ
たり約1480キロベクレル)に相当する。このぐらいの外部被曝の土地であれば、
食物の消費に対する厳しい制限等によって、十分に暮らし ていくことが できる
とイリーンは論じた。要するに広い範囲の住民について、移住・避難しなくても
被曝量は減らせるとの主張だ。
なお、1平方メートルあたり約1480ベクレルというのがどれぐらいの数値なの
か、チェルノブイリと福島を分かりやすく比較したウェブサイ トもある。飯 舘
村あたりがそれにあたっており、現在の福島県の避難の基準から見ても高い値で
ある(http://d.hatena.ne.jp/sfsm /20120526/p1 )。
他方、イリーンは放射線ばかりにこだわると他の健康影響要因が軽んじられる
ことが明らかになってきたともいう。
「汚染地区に住む住民の伝統的生活スタイルの劇的変化や深刻な心理的、社会
的影響による健康への害、さらに食べ物の品質低下による健康に対 する害を伴
う変化に対しては目を向けていないことが明らかになってきた」(303ページ)。
ところが、ソ連の国家放射線防護委員会もこうした「より広い広範な考察」を
無視したとイリーンは論じている。どうしてそうなってしまった のか。「問題
の根本には何があるのだろうか?」とイリーンは問う。答はしきい値の問題だと
いう。
私は別稿で、日本の科学者が80年代の後半から放射線健康影響の「しきい値あ
り」説にこだわってきた経緯を述べている。これは80年代後半 以降、世界の 原
発推進勢力が飛びついた考え方であり、日本では90年代以降、支持者が増え、原
発推進勢力寄りの放射線影響研究を席捲していった。低線量被 曝は危険では な
い、だから放射線防護にそれほど費用はかけなくてもよい――こういう立場から電
力中央研究所などが押し進め、またたく間に日本国内の狭い専 門家集団内で 有
力になった説である。(「日本の放射線影響・防護専門家がICRP以上の安全
論に傾いてきた経緯(1)〜(8)」 http://shimazono.spinavi.net/ )
実はイリーンもこの「しきい値あり」の立場に立っていることが分かる。実
際、イリーンは「しきい値なし」説を厳しく批判している。その後の 原爆疫学
で も、国際的な合意においても「しきい値なし」はますます明確になりつつあ
るが、イリーンの考えはそれに対立するものだ。「しきい値あり」だか ら、移
住はし なくてもよかったという立場が強く打ち出されている。
イリーンは「放射線の影響には閾値がないという仮説は、非常に保守的なスタ
ンスを反映している。多くの科学者の意見の中で、それは、医学的 意味におい
て は最も人道的なアプローチであるけれども、それは同時に後障害の実際にお
こりうる危険を過大評価して」いると言う。「科学的な理論という観点 におけ
る、非 閾値という仮説の主な欠点は、有機体の中で絶えず行われている修復過
程の役割を無視しているという事実である」とも論じている(305ペー ジ)。
新たに低線量放射線被曝について「しきい値あり」論が台頭しているが、その
意義を理解できないでなお「しきい値なし」論に固執している「保 守的」な人
たちがいる。彼らにこそ問題があるのだとイリーンは論じる。リーンは「しきい
値なし説」は新しい科学技術による社会経済的な利益を 損なうものだとも示唆
して いる。
「一つのリスクを避けるための努力は、実際には社会に対してはるかにより危
険な他のリスクをうむ結果となるかもしれない。それゆえに、実 際の状況 に関
するある種のリスクに対する、経済的、社会的にみて合理的なレベルを確立する
ための統合化されたアプローチの必要性がある」(306ペー ジ)
国際的にもこのことが確認されている。「したがって住民の集団移転は、利点
(ある放射線量への被曝の回避)が、彼らの移転と貧弱な社会的 再建の結 果に
よってこれらの人々の健康における害以上の利点がある時にのみ可能となる」
(307ページ)。ここでイリーンはICRPのリスク-ベネ フィット論、 「最適化」
論(対立する利益を勘案しながら、全体としてもっとも高い利益が得られる方策
をとること)を示唆している。だが、この考え方は共産 主義の下では なかなか
受け入れられなかったという。
山下俊一氏や神谷研二氏ら日本の専門家が日本の公衆がリスク論を受け入れる姿
勢が足りなかったと批判するように(「放射線のリスク・コミュニ ケーション
と 合意形成はなぜうまくいかないのか?」
(1)http://shimazono.spinavi.net/?p=339 )、イリーンも旧ソ連ではリスク
論的な認識が欠如していたと歎いている(308〜9ページ)。だが、ICRP、
UNSCEARなどに集う外国 の研究者はリ スク評価の方法を知っている。これに学
ぶべきだというのだ。
「1991年の国際チェルノブイリ・プロジェクト(重松委員長:島薗注)におい
て外国の専門家は…人々の移転に関係する利益と害について の多くの 要素に基
づく分析によって評価することを提唱した。しかし、彼ら(共和国と連邦レベル
の科学者と指導者)は同意しなかった。誰一人賛成しな かったのは、そ のよう
な評価の方法について何も知らなかっただけでなく、不幸なことに国際的な慣例
で認められた放射線防護についての体系的な最適化の方法す ら知らなかっ たか
らである」。(309ページ)
88年段階で、イリーンは集団移転反対論を断固として主張したが、少数派だっ
たと述べている。イリーンらは説得力を強めようと、論拠の強 化を図っ てい
く。それを受け てソ連の放射線防護委員会は88年9月、特異な危険グループ
(例えば子供)に関しては、350mSvを提起した(317 ページ)。ち なみに日本
の食品安全委員会は昨年10月、日本では許容生涯被曝線量を100mSvとしたのだか
ら、子供らは350mSvというのは相当に高 い値である。 そういえば、その後、日
本の文部科学省放射線審議会は食品安全委員会の規制が厳しすぎると反対した
http://ni0615.iza.ne.jp /blog/entry/2589168/。放射線審議会をリードしてき
た日本の放射線健康影響の専門家らはイリーンの考え方に近いのだから 当然か
もしれ ない。
イリーンはこう続ける。「ブルダコフらを代表とするワーキング・グループ
は、350mSvという生涯被曝線量において、予想される(過剰 な)確率的影響 の
レベルを査定した。例えば彼らは、自然発生の悪性腫瘍の割合よりも、放射線に
関連して起こると予想される悪性腫瘍の割合の方が数%高く、遺 伝子異常は3
分の1であることを突き止めた」(317〜8ページ)
当時のソ連では数%の致死がん増加を予想していたことが分かる。また遺伝子
異常を通常より3分の1多いと予想していたようだ。イリーンらは 相当の病気や
異常が出ても、移住による悪影響よりましと考えていた。以上の計算に基づいて
350mSv以下でも移住すべきかどうかの論争に臨んだ。だが、 これは放射線 医の
管轄を超えており、社会経済的、心理社会的な面がさらに考慮されなければなら
ないとして、ロシア、ベラルーシ、ウクライナの国会に委ねる ことになった。
3年後、重松逸造を委員長とする国際チェルノブイリ・プロジェクトは、
350mSv以上でも必ずしも移住しなくてもよいという結論に達した とイリーンは
述べている(319ページ)。「350mSv以上でも移住しなくてもよい」という論が
勝利したのだという。こうしてイリーンは他の損失を減ら すため移転を させな
いという考えがソビエト連邦政府レベルでは公認の立場になったと述べている。
だが、連邦を構成する各共和国のレベルではその結論は採用されなかった。88
年9月にイリーンらソ連放射線防護委員会が主張した生涯 350mSv案をめ ぐり激
論が戦わされた。移住反対の同案は反論され「閾値のない放射線影響についての
仮説を重んじた…「より人道的な」規準の必要性についての 決 定という方向に
向った」(327〜8)。イリーン側に不利な方向に傾いたのだ。
イリーン側は巻き返しを図る。「89年9月14日、17の医学、生物学研 究所から
の92人の主要専門家に署名された」「チェルノブイリ事故後に起こっている状況
に関する放射線の安全性と放射線医学の分野における専門家の声明」 をゴルバ
チョフと共和国最高会議に提出する。本稿(2)でふれたように89年5月にイ
リーンは国連放射線健康影響委員会に生涯350mSv案 を認めさせ るのに成功して
いる。このソ連国内向けの9月の文書でイリーンらの国家放射線防護委員会側
は、移住は不要との自らの立場を擁護するために、さ らに国際的な 調査検討を
行うよう、ゴルバチョフと(ウクライナ、ベラルーシなとの)共和国の最高会議
に要望する。
「それは希望通りに実行され」た(331ページ)。即ち国際チェルノブイリ・
プロジェクトである。重松逸造が委員長を務め、短期の調査に基 づき、91 年、
放射線の健康影響被害はほとんどないとの結論を提出する。「世界中の異なる国
から200人以上の専門家が参加したチェルノブイリプロジェ クトの国際的 諮問
委員会は、集団移転に関して基本的には同じ結論に達した」た(331ページ)。
だが各共和国政府はこれにも従わなかった。92年新たに組織された委員会の長
ベルヤエフは、350mSv規準より厳しい規準による移住を行 う妥協案を決 めた。
新しい規準は91 年時点で年間5mSvを超える地域では強制移転を行うというも
の。任意移転は1〜5mSvの地域ということになった(341ページ)。
新しい規準にイリーンは反対した。だがそこにはイリーン側の 主張もある程
度盛り込まれている。「このプログラムの実行は、実質的に放射線の要因の影響
を減らすことになる。しかし、より多くの注意が、社会的、心理的 側面に払わ
れなければならない」(338ページ)というのだ。
「それは、今やチェルノブイリ事故によって被害を受けた 地区の住民の健康
への主な脅威になっている心理的変化とストレスである。さらに、放射線の要因
によって被害を受ける地区より、この心理的要因によって被害 を受ける地区は
非常に大きい移転による利点とその決定を行う際、放射線の要因だけでなく、住
民の間のストレスや緊張も考慮に入れられている」
1年あたり5mSvとか1mSvのような「低線量では人体に何も害もないということ
がはっきりしているのに、(なぜ移住が)実行されるの か」。 「ある意味、汚
染地区住民の健康が、放射線の慢性ストレスのどちらに影響を受けるかどうか
に、殆ど違いはない。もし、ストレスが移転だけに よって解消でき るのであれ
ば、政府はそれを援助する義務を持つのである」(339ページ)つまり放射能の
影響は小さいと匂わせている。ベルヤエフらの 1992年の文書は 大量移住を認め
ることになったが、実は移住に必ずしも納得していなかったとイリーンは述べ
る。だが、ロシア連邦は1993年以後、議論を再開 し、また生涯 350mSv許容基準
の線に帰って行く(347ページ〜)
(以上、その(3)転載終わり、その(4)へつづく)
===================
Palestine Solidarity in Sapporo
パレスチナ連帯・札幌 代表 松元保昭
E-Mail : y_matsu29@ybb.ne.jp
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3・11事故直後から一貫して、「安全・安心」を説く放射線リスク専門家の言説
とそれを受け取る市民との食い違いを追及し続けてきた東京大学 の島 薗進氏
が、「チェルノブイリ事故後の旧ソ連 医学者と日本の医学者」と題してあらた
な連載を開始しました。著者の了解をえて紹介させていただきます。その(3)
は、しきい値あり論者イリーンの 350mSv基準の主張
名著:中川保雄『放射線被曝の歴史』に逸早く注目・紹介してきた氏が、「この
書物が対象としているのは1990年頃までであり、…その後の放 射線 健康影響・
防護の動向にどのように関わっているかについては述べられていない。…中川が
行ったような本格的な調査研究はとてもまねができないが、 それでも大いに参
考になる手頃な書物がいくつかある。」と、今日なを根強く横たわっている「安
全・安心」論の淵源にさかのぼっての解読に意欲 をの ぞかせています。
◆ブログ:島薗進・宗教学とその周辺より
http://shimazono.spinavi.net/
<ブログから島薗氏の追究履歴がわかります>
★放射性物質による健康被害の可能性について医学者はどう語っているか(2011
年3月23日)
★放射能による健康被害についての医学者、政府・自治体およびメディアの対応
(2011年4月)
★原発による健康被害の可能性と安全基準をめぐる情報開示と価値の葛藤(2011
年4月)
★福島県の学校の20mSv基準は適切か?──専門家・学者・ジャーナリストの自覚
(2011年5月)
★福島原発事故災害への日本学術会議の対応について(2011年5月)
★中川保雄『放射線被曝の歴史』に学ぶ(2011年7〜8月、3回)
★低線量被ばくリスクWG主査長瀧重信氏の科学論を批判する(2012年1月)
★日本の放射線影響・防護専門家がICRP以上の安全論に傾いてきた経緯
――ICRPの低線量被ばく基準を緩和しようという動きの担い手は誰か?――
(2012年2〜5月、8回)
★放射線のリスク・コミュニケーションと合意形成はなぜうまくいかないのか?
(2012年8〜9月、8回)
======以下、その(3)転載(改行あり)=====
■チェルノブイリ事故後の旧ソ連医学者と日本の医学者 ――イリーンと重松の連携
が3.11後の放射線対策にもたらしたもの―― (3)しきい値あり論者イリー
ンの350mSv基準の主張
2012年10月26日
イリーン『チェルノブイリ:虚偽と真実』の第4部では、イリーンが提唱した
「生涯最大被曝線量350mSv」基準をめぐる論争や政治的か けひきの 経緯に
ついて述べられている。それは主に1988年から89年にかけてのことだ。ところ
で、七沢潔『原発事故を問う』(岩波新書)の第4章に もチェルノブ イリ周辺
の89年の状況について叙述があり、そこでもイリーンが登場する。甲状腺がんが
出始めたこの段階でもソ連はなおできるだけ避難をさせ ない、補償を しない立
場に固執していた。その様子が描かれている。
「その根拠となったのは、イリイン・ソ連医学アカデミー副総裁が唱えた生涯
70年間に35レム(350mSv)までの被曝は許容される」と いう説であっ た。イリ
インは放射線医学の専門家としてこのころ、「汚染地帯の住民は避難しなくても
十分に安全である」と説明していた」。これに各地の住 民・科学者が反 発した。」
(2)で述べたように、イリーンは国連放射線影響委員会(UNSCEAR)
の権威を借りて、89年5月、生涯最大被曝線量350mSvの 基準を主 張した。こ
れはすでに『チェルノブイリ:虚偽と真実』第1部でふれられていたが、詳しい
叙述は同書第4部「放射線汚染地区の住民の移転方法に おける科学的 推奨と政
治的解決」に見られる。
この問題は88年に旧ソ連内で激しく論じ合われた。イリーンが掲げる生涯最大
被曝線量350mSv基準は、1平方キロ当たり40キュリー (1平方メート ルあ
たり約1480キロベクレル)に相当する。このぐらいの外部被曝の土地であれば、
食物の消費に対する厳しい制限等によって、十分に暮らし ていくことが できる
とイリーンは論じた。要するに広い範囲の住民について、移住・避難しなくても
被曝量は減らせるとの主張だ。
なお、1平方メートルあたり約1480ベクレルというのがどれぐらいの数値なの
か、チェルノブイリと福島を分かりやすく比較したウェブサイ トもある。飯 舘
村あたりがそれにあたっており、現在の福島県の避難の基準から見ても高い値で
ある(http://d.hatena.ne.jp/sfsm /20120526/p1 )。
他方、イリーンは放射線ばかりにこだわると他の健康影響要因が軽んじられる
ことが明らかになってきたともいう。
「汚染地区に住む住民の伝統的生活スタイルの劇的変化や深刻な心理的、社会
的影響による健康への害、さらに食べ物の品質低下による健康に対 する害を伴
う変化に対しては目を向けていないことが明らかになってきた」(303ページ)。
ところが、ソ連の国家放射線防護委員会もこうした「より広い広範な考察」を
無視したとイリーンは論じている。どうしてそうなってしまった のか。「問題
の根本には何があるのだろうか?」とイリーンは問う。答はしきい値の問題だと
いう。
私は別稿で、日本の科学者が80年代の後半から放射線健康影響の「しきい値あ
り」説にこだわってきた経緯を述べている。これは80年代後半 以降、世界の 原
発推進勢力が飛びついた考え方であり、日本では90年代以降、支持者が増え、原
発推進勢力寄りの放射線影響研究を席捲していった。低線量被 曝は危険では な
い、だから放射線防護にそれほど費用はかけなくてもよい――こういう立場から電
力中央研究所などが押し進め、またたく間に日本国内の狭い専 門家集団内で 有
力になった説である。(「日本の放射線影響・防護専門家がICRP以上の安全
論に傾いてきた経緯(1)〜(8)」 http://shimazono.spinavi.net/ )
実はイリーンもこの「しきい値あり」の立場に立っていることが分かる。実
際、イリーンは「しきい値なし」説を厳しく批判している。その後の 原爆疫学
で も、国際的な合意においても「しきい値なし」はますます明確になりつつあ
るが、イリーンの考えはそれに対立するものだ。「しきい値あり」だか ら、移
住はし なくてもよかったという立場が強く打ち出されている。
イリーンは「放射線の影響には閾値がないという仮説は、非常に保守的なスタ
ンスを反映している。多くの科学者の意見の中で、それは、医学的 意味におい
て は最も人道的なアプローチであるけれども、それは同時に後障害の実際にお
こりうる危険を過大評価して」いると言う。「科学的な理論という観点 におけ
る、非 閾値という仮説の主な欠点は、有機体の中で絶えず行われている修復過
程の役割を無視しているという事実である」とも論じている(305ペー ジ)。
新たに低線量放射線被曝について「しきい値あり」論が台頭しているが、その
意義を理解できないでなお「しきい値なし」論に固執している「保 守的」な人
たちがいる。彼らにこそ問題があるのだとイリーンは論じる。リーンは「しきい
値なし説」は新しい科学技術による社会経済的な利益を 損なうものだとも示唆
して いる。
「一つのリスクを避けるための努力は、実際には社会に対してはるかにより危
険な他のリスクをうむ結果となるかもしれない。それゆえに、実 際の状況 に関
するある種のリスクに対する、経済的、社会的にみて合理的なレベルを確立する
ための統合化されたアプローチの必要性がある」(306ペー ジ)
国際的にもこのことが確認されている。「したがって住民の集団移転は、利点
(ある放射線量への被曝の回避)が、彼らの移転と貧弱な社会的 再建の結 果に
よってこれらの人々の健康における害以上の利点がある時にのみ可能となる」
(307ページ)。ここでイリーンはICRPのリスク-ベネ フィット論、 「最適化」
論(対立する利益を勘案しながら、全体としてもっとも高い利益が得られる方策
をとること)を示唆している。だが、この考え方は共産 主義の下では なかなか
受け入れられなかったという。
山下俊一氏や神谷研二氏ら日本の専門家が日本の公衆がリスク論を受け入れる姿
勢が足りなかったと批判するように(「放射線のリスク・コミュニ ケーション
と 合意形成はなぜうまくいかないのか?」
(1)http://shimazono.spinavi.net/?p=339 )、イリーンも旧ソ連ではリスク
論的な認識が欠如していたと歎いている(308〜9ページ)。だが、ICRP、
UNSCEARなどに集う外国 の研究者はリ スク評価の方法を知っている。これに学
ぶべきだというのだ。
「1991年の国際チェルノブイリ・プロジェクト(重松委員長:島薗注)におい
て外国の専門家は…人々の移転に関係する利益と害について の多くの 要素に基
づく分析によって評価することを提唱した。しかし、彼ら(共和国と連邦レベル
の科学者と指導者)は同意しなかった。誰一人賛成しな かったのは、そ のよう
な評価の方法について何も知らなかっただけでなく、不幸なことに国際的な慣例
で認められた放射線防護についての体系的な最適化の方法す ら知らなかっ たか
らである」。(309ページ)
88年段階で、イリーンは集団移転反対論を断固として主張したが、少数派だっ
たと述べている。イリーンらは説得力を強めようと、論拠の強 化を図っ てい
く。それを受け てソ連の放射線防護委員会は88年9月、特異な危険グループ
(例えば子供)に関しては、350mSvを提起した(317 ページ)。ち なみに日本
の食品安全委員会は昨年10月、日本では許容生涯被曝線量を100mSvとしたのだか
ら、子供らは350mSvというのは相当に高 い値である。 そういえば、その後、日
本の文部科学省放射線審議会は食品安全委員会の規制が厳しすぎると反対した
http://ni0615.iza.ne.jp /blog/entry/2589168/。放射線審議会をリードしてき
た日本の放射線健康影響の専門家らはイリーンの考え方に近いのだから 当然か
もしれ ない。
イリーンはこう続ける。「ブルダコフらを代表とするワーキング・グループ
は、350mSvという生涯被曝線量において、予想される(過剰 な)確率的影響 の
レベルを査定した。例えば彼らは、自然発生の悪性腫瘍の割合よりも、放射線に
関連して起こると予想される悪性腫瘍の割合の方が数%高く、遺 伝子異常は3
分の1であることを突き止めた」(317〜8ページ)
当時のソ連では数%の致死がん増加を予想していたことが分かる。また遺伝子
異常を通常より3分の1多いと予想していたようだ。イリーンらは 相当の病気や
異常が出ても、移住による悪影響よりましと考えていた。以上の計算に基づいて
350mSv以下でも移住すべきかどうかの論争に臨んだ。だが、 これは放射線 医の
管轄を超えており、社会経済的、心理社会的な面がさらに考慮されなければなら
ないとして、ロシア、ベラルーシ、ウクライナの国会に委ねる ことになった。
3年後、重松逸造を委員長とする国際チェルノブイリ・プロジェクトは、
350mSv以上でも必ずしも移住しなくてもよいという結論に達した とイリーンは
述べている(319ページ)。「350mSv以上でも移住しなくてもよい」という論が
勝利したのだという。こうしてイリーンは他の損失を減ら すため移転を させな
いという考えがソビエト連邦政府レベルでは公認の立場になったと述べている。
だが、連邦を構成する各共和国のレベルではその結論は採用されなかった。88
年9月にイリーンらソ連放射線防護委員会が主張した生涯 350mSv案をめ ぐり激
論が戦わされた。移住反対の同案は反論され「閾値のない放射線影響についての
仮説を重んじた…「より人道的な」規準の必要性についての 決 定という方向に
向った」(327〜8)。イリーン側に不利な方向に傾いたのだ。
イリーン側は巻き返しを図る。「89年9月14日、17の医学、生物学研 究所から
の92人の主要専門家に署名された」「チェルノブイリ事故後に起こっている状況
に関する放射線の安全性と放射線医学の分野における専門家の声明」 をゴルバ
チョフと共和国最高会議に提出する。本稿(2)でふれたように89年5月にイ
リーンは国連放射線健康影響委員会に生涯350mSv案 を認めさせ るのに成功して
いる。このソ連国内向けの9月の文書でイリーンらの国家放射線防護委員会側
は、移住は不要との自らの立場を擁護するために、さ らに国際的な 調査検討を
行うよう、ゴルバチョフと(ウクライナ、ベラルーシなとの)共和国の最高会議
に要望する。
「それは希望通りに実行され」た(331ページ)。即ち国際チェルノブイリ・
プロジェクトである。重松逸造が委員長を務め、短期の調査に基 づき、91 年、
放射線の健康影響被害はほとんどないとの結論を提出する。「世界中の異なる国
から200人以上の専門家が参加したチェルノブイリプロジェ クトの国際的 諮問
委員会は、集団移転に関して基本的には同じ結論に達した」た(331ページ)。
だが各共和国政府はこれにも従わなかった。92年新たに組織された委員会の長
ベルヤエフは、350mSv規準より厳しい規準による移住を行 う妥協案を決 めた。
新しい規準は91 年時点で年間5mSvを超える地域では強制移転を行うというも
の。任意移転は1〜5mSvの地域ということになった(341ページ)。
新しい規準にイリーンは反対した。だがそこにはイリーン側の 主張もある程
度盛り込まれている。「このプログラムの実行は、実質的に放射線の要因の影響
を減らすことになる。しかし、より多くの注意が、社会的、心理的 側面に払わ
れなければならない」(338ページ)というのだ。
「それは、今やチェルノブイリ事故によって被害を受けた 地区の住民の健康
への主な脅威になっている心理的変化とストレスである。さらに、放射線の要因
によって被害を受ける地区より、この心理的要因によって被害 を受ける地区は
非常に大きい移転による利点とその決定を行う際、放射線の要因だけでなく、住
民の間のストレスや緊張も考慮に入れられている」
1年あたり5mSvとか1mSvのような「低線量では人体に何も害もないということ
がはっきりしているのに、(なぜ移住が)実行されるの か」。 「ある意味、汚
染地区住民の健康が、放射線の慢性ストレスのどちらに影響を受けるかどうか
に、殆ど違いはない。もし、ストレスが移転だけに よって解消でき るのであれ
ば、政府はそれを援助する義務を持つのである」(339ページ)つまり放射能の
影響は小さいと匂わせている。ベルヤエフらの 1992年の文書は 大量移住を認め
ることになったが、実は移住に必ずしも納得していなかったとイリーンは述べ
る。だが、ロシア連邦は1993年以後、議論を再開 し、また生涯 350mSv許容基準
の線に帰って行く(347ページ〜)
(以上、その(3)転載終わり、その(4)へつづく)
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Palestine Solidarity in Sapporo
パレスチナ連帯・札幌 代表 松元保昭
E-Mail : y_matsu29@ybb.ne.jp
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