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Channel: 薔薇、または陽だまりの猫
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「糞バエ」の意地を見せた高田昌幸氏(元北海道新聞記者)の「自由報道協会賞」受賞辞退の弁/東本高志

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高田昌幸さんは知る人ぞ知る北海道新聞のエース記者だった人です(昨年の6月に同新聞社を退社し、現在はフリー
ランス)。2004年には北海道警裏金報道の取材チームのリーダーとして日本ジャーナリスト会議(JCJ)大賞を受賞し
てもいます。その高田さんがご自身のブログに「『自由報道協会賞』の『辞退』について」というコメントを発表しています。

自由報道協会は昨年の1月にフリージャーナリストの上杉隆氏や岩上安身氏らが中心になって設立されたフリージャ
ーナリストを中心としたジャーナリスト団体です。その自由報道協会(上杉隆代表)が設立1周年を機に昨年1年間に取
材、報道、評論活動などを通じて顕著な業績をあげたジャーナリスト及び作品を顕彰する目的をもって「自由報道協会
賞」を創設しましたが、高田さんはその記念すべき第1回目の「自由報道協会賞」の部門賞「3・11賞」の受賞を辞退し
たというわけです。

高田さんはその辞退の弁を次のように書いています。

「この度、『自由報道協会賞』の『3・11賞』に私が編者となった書物がノミネートをいただきました。地味な本に着目い
ただいたことに深く感謝しています。また昨日夕、協会事務局のインターンの方にノミネートされたとの連絡を受け、そ
の後、27日夜の授賞式に出席も了解しました。/ところで昨日の連絡まで、私は賞のことも知らず、どのような部門
にどんな作品がノミネートされているのかも知りませんでした。今夜零時すぎ、協会のHPで候補の一覧を初めて拝見
しました。その中で記者会見賞の部門があり、小沢一郎氏の受賞がすでに決定されていることに強い違和感を感じま
した。/この賞は報道する側の諸活動が対象になるものだとばかり思い込んでいました。小沢氏の政治姿勢や小沢
氏の事件に関する検察の姿勢などに関係なく、報道する側へのアワードと一緒に、通常は報道される側の権力者が
並び立つことに強い違和感を感じております。」
http://newsnews.exblog.jp/17353600/

高田さんの違和感は私はジャーナリストとして当然の違和感だと思います。逆にいえば私は報道される側の政治家を
受賞対象とすることを決めた(この際、小沢一郎氏というフリーランス記者の中でも評者によって評価が著しく異なる
人物をわざわざ受賞対象にした、という問題性は問わないことにしても)自由報道協会賞運営委員会(上杉隆、島田
健弘、畠山理仁、村上隆保、自由報道協会インターン)の面々のジャーナリストとしてのセンスと見識を疑います。

高田さんは以前、作家の辺見庸氏から自身を含む会社員記者を「糞バエ」と酷評されたことについて次のような述懐
を述べていたことがあります。

「スミヤキスト通信ブログ版さんが『辺見庸氏の罵倒』という一文を書いている。」また、「新聞労連委員長だった共同
通信社の美浦さんは『辺見庸氏の罵倒に答えてみたい』という文章を書かれている。それらを読んでいたら、あの辺
見氏の激烈な言葉を目にしたときの、言いようのない、深い絶望感のような感覚を思い出した。」

「私が『糞バエ』を初めて目にしたのは、たぶん、2001年ごろである。東京で経済官庁の取材を担当していた。日々
の仕事にそれなりの刺激はあったけれど、一方で、役所の広報マンじゃあるまいに、役所が主語の記事をこんなにも
書き続けて喜んでいる俺はどうかしている、という思いも抱えていた。」

「『糞バエ』と言われて、それに反論する気持ちにはなれなかった。ひたすら落ち込んだ。今もそうかもしれない。ただ、
一方では、自分自身と自分の行動に対する、もっと深い洞察が必要だと思った。もし万が一、『自分は糞バエではな
い』と胸を張って言えるとしたら、それはどんな姿なのだろうかと、それをもっと深く考え、行動すべきだと。そして、今
もそうなのだが、あの激烈な言葉を読むと、自分の心の奥底に、なにか、ずっしりとした、例えば、マグマのようなもの
が燃えているように感じることがある。そこからはいつも、『このままじゃ、いかんだろ』という声が発せられているよう
に感じるのだ。夜逃げのように慌しい引越し作業の中、ロンドンへの荷物の中に辺見氏の本を半ば無意識に何冊も
詰め込んだのは、その何か燃えるようなものを、時々、呼び起こしたいという気持ちがどこかにあったからなのだと思
う。」
http://newsnews.exblog.jp/d2006-08-30/

高田さんのこの自省はいまもどこかで続いているのでしょう。そして、その思いが今回の「自由報道協会賞」受賞辞退
の弁ともなったのでしょう。高田さんはいまだに「糞バエ」の意地を捨ててはいないな、と私は彼のまっとうな記者魂に
ホッとします。実のところ、彼への信頼を一度捨てようかと思っていたことがあるのです。つい最近まで。

最後に辺見の「糞バエ」発言とはどういうものだったのか。該当箇所を抜粋しておきます。

【辺見庸『いまここに在ることの恥』?‐2「憲法と恥辱について」の一節より】
…………………………………………………………………………………………
【戦後最大の恥辱】
私は人としての恥辱についてもっと語りたいのです。おそらく戦後最大の恥辱といってもいいくらいの恥辱、汚辱……
そうしたものが浮きでた、特別の時間帯があった。そのとき、私たちの多くは、しかし、だれも恥辱とは思わなかった。
が、恥を恥とも感じないことがさらに恥辱を倍加させる。ひょっとしたら、それは私の脳出血に関係するかもしれませ
ん。私はカーッとしました。「これをただ聞きおくとしたら、思想も言説もまともに生きてはいられないはずだ」と思いま
した。それはいつ起きたか。忘れもしない二〇〇三年の十二月九日です。名前を口にするのもおぞましいけれど、コ
イズミという一人の凡庸な男がいます。彼が憲法についてわれわれに講釈したのです。まごうかたない憲法破壊者
が、憲法とはこういうものだ、「皆さん、読みましたか」とのたまう。二〇〇三年十二月九日、自衛隊のイラク派兵が
閣議決定された日です。コイズミは記者会見をして憲法前文について縷々(るる)説諭した。こともあろうに、自衛隊
をイラクに派兵するその論拠が憲法の前文にある、といったのです。およそ思想を語る者、あるいは民主主義や憲
法を口にする者は愧死(きし)してもいい、恥ずかしくて死んでもいいほどの、じつにいたたまれない日でした。いやな
喩えだけれど、それは平和憲法にとっての「Day of Infamy」でした。

二つの意味で屈辱的でした。最悪の憲法破壊者であるファシストが、まったくデタラメな解釈によって、平和憲法の精
神を満天下に語ってみせたということ。泥棒が防犯を教えるよりももっと悪質だと私は思います。ナチスとワイマール
憲法の関係を私は想起したほどです。ナチスはただ単純な憲法破壊集団ではなかった。一応は憲法遵守を偽装し、
「民主的」手つづきで独裁を実現しようとしてワイマール憲法四十八条の大統領緊急令を利用したり、全権賦与法案
を議会でとおすなかで独裁を完成していく。つまり、ワイマール憲法の権威をいっときは利用もし、世論を巧妙に欺い
た。いうまでもなく、これと日本の現状を比較するのには明らかな無理がありますが、コイズミ的なるものへの世論の
無警戒には、なにやら過去の恥ずべきぶりかえしを見ざるをえません。これが第一番目です。

二つ目。コイズミの話を直接聞いていたのはだれだったのか。政治部の記者たちです。

彼らは羊のように従順にただ黙って聞いていた。寂として声がない。とくに問題にもしなかった。翌日の新聞は一斉
に社説を立てて、このでたらめな憲法解釈について論じたでしょうか。ひどい恥辱として憤慨したでしょうか。手をあ
げて、「総理、それはまちがっているののではないですか」と疑問をていした記者がいたでしょうか。いない。ごく当た
り前のように、かしこまって聞いていた。ファシズムというのは、こういう風景ではないのか。二〇〇二年に私がだし
た『永遠の不服従のために』(毎日新聞社刊、講談社文庫)という本で書いたことがあります。やつら記者は「糞バエ
だ」と。友人のなかには何度も撤回しろという者もいました。でも私は拷問にかけられても撤回する気はない。糞バエ
なのです。ああいう話を黙って聞く記者、これを糞バエというのです。ただし、糞バエにもいろいろな種類がある。女
性の裸専門の雑誌に書いて、ブンブンとタレントにたかりついている糞バエ。私は彼らの悲哀をわかります。フリーラ
ンスの記者が、ものかげに隠れて何時間も鼻水を流しながら、芸能人の不倫現場をおさえようとする。それは高邁な
志はないかもしれない。でも、生活のためにそれをやっている。私はそれをかばいたい気がします。

許せないのは、二〇〇三年十二月九日、首相官邸に立って、あのファシストの話を黙って聞いていた記者たち。世
の中の裁定者面をしたマスコミ大手の傲岸な記者たち。あれは正真正銘の、立派な背広を着た糞バエたちです。彼
らは権力のまく餌と権力の排泄物にどこまでもたかりつく。彼らの会社は巨額の費用を投じて「糞バエ宣言」ならぬ
「ジャーナリズム宣言」などという世にも恥ずかしいテレビ・コマーシャルを広告会社につくらせ、赤面もしないどころ
か、ひとり悦に入っている。CMはこういう。「言葉に救われた。言葉に背中を押された。言葉に涙を流した。言葉は
人を動かす。私たちは信じている。言葉のチカラを。ジャーナリスト宣言」。これはまさにブラック・ユーモアです。ある
いは、ジョージ・オーウェルの『一九八四年』にでてくる「ニュースピーク」や「ダブルシンク」の日本版です。言葉を脱
臼させ根腐れさせているのは、なにも政治権力だけではない。マスメディアが日々それをやり、情報消費者にシニシ
ズムを植えつけている。あれをもっとも憎むべきだ、軽蔑すべきだと私は思っている。しかし、みんながそうだから、
脱臼した言葉のなかで暮らしているから、糞バエでも恥知らずに生きていける。われわれも糞バエになればいいわ
けです。コイズミがなにをしようが、憲法前文についてどういおうが、「そうですか」と。あるいはちょっとシニカルに「あ
あ、あんな人だからね」と。でも、一瞬の蘇生というものがあるではないか。一刹那の覚醒というものがあるのではな
いか。
……………………………………………

東本高志@大分
higashimoto.takashi@khaki.plala.or.jp
http://mizukith.blog91.fc2.com/

***************************

藪田さんから(CML)

高田氏の件は、知らなかったが、氏の判断の確かさを支持したい。

自由報道協会は、既存のメディアにたいする批判として、あってもいいかなと思っていたが、「小沢一郎」に受賞させるようでは、自由報道協会はやっぱりだめよね。

岩上安身については、ジャーナリストというより、ひと昔の言い方をすればイエロージャーナーリスト。なにかひとつの事を深く探求して行くのではなく、その時その時、話題になっているメジャーな路線からこぼれた与太ネタを、ネットを通じて流しているだけで、あたかもそれがメジャーな報道界にたいするアンチテーゼのように見えてるだけで、ジャーナーリズムの変革にも何にもつながらないと思う。

むしろ、一部の行き詰まりを感じているリベラル層の「ガス抜き」になっている感さえある。

行き詰まりグループの、新たな打開ネタとして、「小沢一郎」支持・内閣論が出てきたと思っている。いわゆる「英雄待望論」ですね。かつてのヒールが転じて、今や救世主かのよう。

オジサンたちのヒーロー「小沢一郎」イエイエイエ〜〜ィ

私のスタンスは、高田氏や東本氏と、同じです。




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