北島邦彦のブログ「すぎなみ未来BOX」から
http://blog.goo.ne.jp/kjmirai2009
新年の錦帯橋周辺を歩く
http://blog.goo.ne.jp/kjmirai2009/e/5086b42673a85a201aeb198c097b660b
激動の―何が起きるか予測もつかない、血沸き肉躍る2013年が始まりました。
わが岩国の誇る錦帯橋周辺は、例年に比べると人出が若干多いように感じます。
“見返り事業”である岩国錦帯橋空港(青森県三沢に続く国内2つめの米軍との軍民共用空港で、管制は米軍が仕切っています)のおかげか?
正月の運動不足を補うために、夫婦でロングウォークに出かけました。
作家・宇野千代の生家を見て(年始で内部を観覧することはできませんでしたが)、椎尾(しいのお)神社で初詣(岩国高校同窓会東京支部のK先輩に偶然会って、新年のご挨拶)。
錦帯橋を展望しながらお茶を飲んで、岩国寿司を買って帰りました。
「岩国寿司」は地元名産の四角形をした押し寿司で、これはなかなか美味!写真を撮り忘れたのが残念!
-------------
・・・と言うのが ネットで話題になってることを
『酒井徹の日々改善』さんから 教えていただいた。
とても面白かったので転載します。ただし一部カットしてます。
理由は私が北島邦彦という政治家をよく知らないため、北島氏の党派的立場についても酒井徹さんのブログでの記述に確信が持てないからです。
むろん、北島氏のブログに目を通せば おおよそ想像はつくのですが。
それでも、転載しようと思ったのは マルクス・レーニン主義左翼にとっての、日本伝統(?)「年中行事」との関わりについての酒井徹さんによる考察に、ああ、私もそのように感じていたことがあった・・という、少々感傷めいた思いがあったからです。(私も老いたものです)
酒井徹さんのブログの意図とは異なってしまうかもしれませんが・・・、そこはお許しいただくようお願いするしかありません。
わたしのカットした部分は、
http://imadegawa.exblog.jp/18363918/でどうぞ
初詣と天皇制との関連などについては
以下のブログ記事も参考になるでしょう
http://d.hatena.ne.jp/tukinoha2/20080104/p1
私の認識も ほぼ 同じです。
---------------------
[日本史]高木博志『近代天皇制の文化史的研究』より「初詣の成立」/tukinohaのアニメじゃない日記
今回取り上げる「初詣の成立」を含めた本書におけるいくつかの考察に共通するテーマは「京都の天皇から日本の天皇への移行」である。
近代の日本において急速に整備された官僚制がその権威の拠り所としたのは天皇であるが、その天皇の権威もまた、地域によって差のある不均質なものであった。特に京都には朝廷の領地が集中していたこともあり、「近世中期以降の民衆にとって、ある意味では民俗的信仰の対象であった」(飛鳥井雅道)という状態が続いていたのである。それを東京遷都によって断ち切るとともに、全国民に共有される天皇像を創り上げること。これが明治初期から中期にかけての重要な課題であった。
その具体的な手段として創り出されたのが「伝統」である。天皇を中心として体系付けられた「伝統」の中に民衆を取り込んでいくことで、自身が「伝統」を介して皇室の歴史と繋がっているという意識を民衆に与え、民衆を「歴史を共有する集団=国民」として育てていくために、明治初期には様々な「伝統」が生み出された。「初詣」という伝統もそのひとつとして位置付けられるのである。
それでは以下、「初詣の成立」の論旨を私なりに再構成してみよう。
まずは明治維新よりも前の元日の過ごし方を見ていこう。大正六年一月十五日付の『京都日出新聞』には「維新前の京都の正月」と題した、以下のような記事が書かれている。
「町屋では元日は戸を閉ぢて一日寝込むので、これを寝正月といつた。恵方棚を作り、にらみ鯛を竈の上に懸ける。鯛は夷の持物で赤は陽を表するからである。正月の活動は二日から始る。書初、謡初、廻札、商始、初乗初皆二日からである。(中略)恵方参りも賑つたが、殊に鞍馬の初寅詣は景気があった。寅の日は本尊出現の日とも、毘沙門天の縁日とも云つている」
元日はどこにも出かけず、家の中で歳徳神を迎えること。それと、近世の初詣と言うべき恵方参りが三が日とは関係なく、十二支に基づいて毎年違う日に行われていたこと。この2点は注目に値するだろう。
それに対して、江戸では屋内で歳徳神を迎える「年徳棚」の存在と共に、元日に「恵方参詣」が行われていたことが天保九年(1838)に刊行された『東都歳時記』に記されている。農村部でも三が日は家の中で休息する地方、元日から年男が神社に参詣する地方など多様な習慣が存在していたことが報告されており、近世の正月の過ごし方は千差万別であったと言える。ただ、一般的には柳田国男が以下のように書いている通り、家の中で歳徳神を迎える場合が多かったようだ。
元日だけは戸をしめ掃除もせず、家にこもって親子夫婦ばかり、和やかに静かに一日を送るのが、古風な正月の幸福であったと思われるのに、人が群がって住むようになると、まず早天から飛び出してやたらに訪問をする
――柳田国男「これからの正月」1941――
では、初詣という習慣はどのような過程を経て社会に定着したのか。1929年に刊行された矢部善三『年中事物考』には以下のように書かれている。
「既にして、元日早旦に、先づ上は宮中に於せられて御神事あり、その大御手振りのまにまに、全国の神社に於いて神事あり、国民の習礼として元旦の神拝がなければならぬ処である。(中略)此の風習は、やはり宮中に於る四方拝に起源を発して居るものらしく」
矢部が言うには、宮中において行われていた四方拝という儀式を国民が真似て作られるのが初詣である、ということだ。この単純な図式をそのまま受け入れることは出来ないが、初詣の成立において官公庁の果たした役割は注目される。
『京都日出新聞』の記事を参照しながら、その成立過程を辿っていこう。
まずは明治十九年の正月だが、大晦日に行われていた祗園社への参詣についての記事で「去年は十二時頃雑踏してお旅町より巡査が人力車を止むる程なりしも、一時過ぎには人足も稀となりたり」とあり、元日の参詣が行われていなかったことを表している。明治三十三年の段階でも「元日は魔が襲ふとて門戸鎖す家多かりしも、二日は皆晴れ晴れしく家門開け放ちたれば人出も従つて多く」とあり、元日は家に籠もる近世の習慣が続いていることをうかがわせる。
しかしその一方、官公庁や諸学校では早くから元日の行事が行われていた。
「また京都府庁は例により諸官員一同参賀に昇庁せしにつき庁前は馬車人力車にてさしも広き門前も暫時は往来を止むるくらいなりし、その他裁判所府立公立の諸学校に於ても例によりて門松注連飾をなし、いづれも新年の飾りをなしたり」
こうした元日の習慣は、学校を通して地域社会に広がっていく。明治二十四年に制定された「小学校祝日大祭日儀式規定」において、正月は「元始祭」として社会全体の年中行事に組み込まれるのである。
http://www1.jca.apc.org/anti-hinokimi/archive/chronology/senzen/shogaku910617.htm
なお、元始祭は明治三年に宮中で創始された新しい祭であることを付け加えておく。
以上のような過程を経て元日に特別な意味が付与されるようになったわけだが、それに伴って明治二十七年以降は恵方を知らせる記述が毎年元旦の新聞に登場するようになる。このことから、元日の恵方参りが一般化したことを知ることが出来る。
その恵方参りのあり方も変化していく。明治三十二年の記事では
「本年の恵方は寅卯の方なり、されば京都の真中六角堂頂法寺よりいへば、東丸太町の熊野社、聖護院お辰稲荷、壇王の東にある法皇稲荷、平安神宮、吉田神社なるべし。(中略)それとも屠蘇に酔ふた人は神棚を仮に家の寅卯の方に移して拝んで置くも差し支えなからん」
とあるように、正月参り=恵方参りという意識がうかがわれる。ところが明治四十年になると
「大人は市議事堂へ、子供は学校に君が代を寿き奉りて帰れば、父子夫婦合携へての神詣で物見湯山(中略)神社にては伏見の稲荷神社、八坂神社、恵方は今宮神社、近くは白雲神社への参詣者多く」
と、「恵方参り」とは別に「神詣」という概念が出現する。しかも「神詣」の対象は官幣大社である伏見稲荷と八坂神社であった。
大正期に入ると「初詣」という言葉が定着するが、それに代わって「恵方参り」という概念が後退していく。大正五年の記事では以下のように書かれている。
「京阪電車の広告では八幡が恵方とあるし、京電の広告では稲荷が恵方とある、大分に方角が違うが、どちらでもエイ方に参詣したら御利益があるに相違あるまい」
長くなったのでまとめよう。
近世以前において正月、特に元日の過ごし方は千差万別であったが、一般的には家の中で歳徳神を迎える傾向が強かったと考えられる。それが、元日に行われる官公庁への拝賀と学校の元始祭を通して宮中行事と結びつき、元日のもつ特別な意味が社会に浸透していく。こうして国家的祭祀としての初詣が成立したのである。
さらに初詣はその成立過程において「物見湯山」的な性格を強めていく。その背景には鉄道会社その他による商業的な狙いがあったと考えられるが、その話については別の機会に譲ることにしよう。
http://d.hatena.ne.jp/tukinoha2/20080104/p1
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近代天皇制の文化史的研究―天皇就任儀礼・年中行事・文化財 (歴史科学叢書)
http://www.amazon.co.jp/dp/4751726706/?tag=hatena_st1-22&ascsubtag=d-1mcoj
作者: 高木博志
出版社/メーカー: 校倉書房
発売日: 1997/02
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酒井徹の日記帳―平和・人権・民主主義―から
■ブログで公表、インターネットで話題に
***の前杉並区議・北島邦彦氏が、山口県岩国市にある椎尾八幡宮に初詣に出かけたことを自らのブログで明らかにした。
椎尾八幡宮は右翼団体・日本会議にもつながる宗教法人・「神社本庁」に所属しており、祭神は応神天皇や仲哀天皇・神功皇后などである。
インターネット上では、「北島邦彦はいつから天皇主義者に転向したのか」などと北島氏の参拝を疑問視する声が上がっており、話題となっている。
■「神社は天皇制とは違う」か
北島氏を批判する意見に対し、「『神社=天皇』ではない」とする反論もある。
「明治政府によって吸収・統合された各地の神々を みんな『天皇制』として拒否する事はない」というのだ。
たしかに、地域の神社の多くは元々は「氏神様」のようなものが漠然と祭られていたところから始まったのだと思われる。
しかし、現在は神社自身によってその祭神が「応神天皇」や「仲哀天皇」であると明示されているのであれば、元々どうであったかにかかわらず、今は「応神天皇や仲哀天皇が祭られている」と見るしかないのではないだろうか。
靖国神社が、
「元々は戦争の犠牲者となった戦没者を祭り、平和を祈願する神社だったのだ」というような意見も、それ自体としては確かにそれらしくはあるわけであるが、現在は戦争を引き起こした張本人であるA級戦犯らが合祀されており、単純に「戦没者を祭り、平和を祈願する神社」と見るわけにはいかなくなっているのと似ている。
■唯物論は「神」を拝む行為とは相容れない
さらに、天皇制云々を脇に置いたとしても、***(北島氏が)、何のためらいもなく神社に参拝し、それを公然とブログで公表するのはいかがなものだろうか。
北島氏が唯物論者ではなく、個人的宗教信念としては神社神道の信者であり、その上で***の政策と手法のみに共感して党に加わっている「神社神道社会主義者」であるというのなら話は別だが、おそらくそうではないのであろう。
北島氏のこれまでの言動を見る限り、彼は原則的な「レーニン主義者」であり、当然 唯物論者であると思われる。
そうであるならば、である。
本来 唯物論とは、この世はごくわずかの狂いもなく物の筋道(物理法則)に従って動いていると考える科学的な ものの見方であるはずだ。
「神」とか「霊」とかの非科学的な存在を信じる考え方とは根本的に相容れない。
そうした神や霊の類を拝んだり信じたりするものではないはずだ。
「神」とか「霊」といったものが実在し、そうした「神」とか「霊」とかにこの世界を動かす力があるなどと信じる考え方は唯物論とは正反対の観念論だ。
「応神天皇」や「仲哀天皇」といった人物(あるいは遠い「ご先祖様・氏神様」であったとしても)は既に物質としては機能を停止している(=亡くなっている)にもかかわらず、なお霊魂が生きて働いていると考えるのも、人の精神の活動を物質から切り離されたものと見る観念論だ。
死んだ人にはもはや意識はない。
神を拝み、これに祈ることによって神の力を借りようとするのは観念論者のすることであって、唯物論者のすることではない。
唯物論者にはただ、生前の死者の言動や業績に思いをはせ、そこから生きる活力や指針を汲み出すことしかできない。
それは、神社に参拝することとは本質的に異なることだ。
■初詣は「しなくても困らない」こと
インターネット上では、
「おまえんとこのテレビは、パナソニックか、シャープか? パナソニックなら、松下資本の犬ということになる」などという乱暴な意見も飛び出していたが、テレビを見ることと神社に参拝することとを同列に論じることはできないと思う。
現代社会でニュースを見、ドラマやアニメやバラエティー番組を楽しもうと思えばテレビを買わざるをえない。
(私は金銭的な事情からまだ家にテレビがないのだが)。
そして現在、家電の生産手段は全て資本家に握られており、そこで働く労働者が一人一票で経営者を選出して労働者自身が職場を運営する労働者協同組合で生産されたテレビというものはまだないわけである。
だから私たち労働者は、パナソニックなりシャープなり、思想信条にかかわらずとにかく資本の手からテレビを買わざるをえないのであって、パナソニックのテレビを買ったからといって松下資本の手先扱いされてしまってはたまったものではない。
しかし神社への参拝については事情が違う。
唯物論の立場に立てば、物質から切り離された「神」や「霊」といったものは実在せず、そうしたものにこの世界を動かす力はないわけだから、神社に参拝してもしなくても別に不都合は生じない。
したい人はすればいいが、したくなければ別にしなくてもいいわけである。
にもかかわらず参拝したということは、自分の主体的な判断に基づいて参拝したということだ。
さらに、単に個人的に参拝しただけでなくこれをブログで公表しているのである。
政治家として、***の指導者として、支持者の模範となるべき人物がこういうことをすれば、当然影響が広がることは予想される。
単に迷信を助長するだけでなく、右翼的姿勢を隠さない神社本庁の立場を強化することにもつながっていく。
■君が代には職務命令でも拒否せよというのに
***は君が代の斉唱はおろか、起立さえも拒否するように呼びかけている。
もちろん、それをとやかく言うつもりはない。
私も高校時代は一貫して斉唱拒否・起立拒否を押し通してきた。
それはひとえに私が皇室制度に反対する共和主義者であるからであり、「君が代」(天皇が日本国の象徴である状態)が「千代に八千代に」続くことを願うことはできないからだ。
***の人々も、(理由は少しずつ違うかもしれないが)同様のこだわりがあるのだと拝察する。
しかし、君が代の起立・斉唱に対しては、たとえ職務命令であっても「40秒間のストライキに決起せよ」と呼びかけている***派の指導的政治家が、他方では何のこだわりもなくあっさり神社に参拝してしまうという精神構造に私はやはり理解に苦しむものを感じてしまう。
歴史をひもとけば、過去にはキリスト教徒の人たちに神社参拝が強制されたこともあった。
創価学会の人たちが、伊勢神宮のお札を祭るよう強制されたこともあった。
そうした圧力に抵抗し、弾圧を受け、果ては獄中で亡くなった人もいるわけである。
他方、現在の北島氏は神社参拝を職務命令されたわけではないはずだ。
参拝するつもりがなければ参拝しなくても誰も文句は言わないだろう。
にもかかわらず参拝する。
***の指導的立場にある(と目される)政治家であり、原則的な唯物論者であるはずなのにそれでも参拝する。
私には今ひとつ理解できない。
もちろん、参拝するしないは北島氏の自由である、という信教の自由は大前提の上での個人的な感想であるのだが。
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激動の―何が起きるか予測もつかない、血沸き肉躍る2013年が始まりました。
わが岩国の誇る錦帯橋周辺は、例年に比べると人出が若干多いように感じます。
“見返り事業”である岩国錦帯橋空港(青森県三沢に続く国内2つめの米軍との軍民共用空港で、管制は米軍が仕切っています)のおかげか?
正月の運動不足を補うために、夫婦でロングウォークに出かけました。
作家・宇野千代の生家を見て(年始で内部を観覧することはできませんでしたが)、椎尾(しいのお)神社で初詣(岩国高校同窓会東京支部のK先輩に偶然会って、新年のご挨拶)。
錦帯橋を展望しながらお茶を飲んで、岩国寿司を買って帰りました。
「岩国寿司」は地元名産の四角形をした押し寿司で、これはなかなか美味!写真を撮り忘れたのが残念!
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・・・と言うのが ネットで話題になってることを
『酒井徹の日々改善』さんから 教えていただいた。
とても面白かったので転載します。ただし一部カットしてます。
理由は私が北島邦彦という政治家をよく知らないため、北島氏の党派的立場についても酒井徹さんのブログでの記述に確信が持てないからです。
むろん、北島氏のブログに目を通せば おおよそ想像はつくのですが。
それでも、転載しようと思ったのは マルクス・レーニン主義左翼にとっての、日本伝統(?)「年中行事」との関わりについての酒井徹さんによる考察に、ああ、私もそのように感じていたことがあった・・という、少々感傷めいた思いがあったからです。(私も老いたものです)
酒井徹さんのブログの意図とは異なってしまうかもしれませんが・・・、そこはお許しいただくようお願いするしかありません。
わたしのカットした部分は、
http://imadegawa.exblog.jp/18363918/でどうぞ
初詣と天皇制との関連などについては
以下のブログ記事も参考になるでしょう
http://d.hatena.ne.jp/tukinoha2/20080104/p1
私の認識も ほぼ 同じです。
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[日本史]高木博志『近代天皇制の文化史的研究』より「初詣の成立」/tukinohaのアニメじゃない日記
今回取り上げる「初詣の成立」を含めた本書におけるいくつかの考察に共通するテーマは「京都の天皇から日本の天皇への移行」である。
近代の日本において急速に整備された官僚制がその権威の拠り所としたのは天皇であるが、その天皇の権威もまた、地域によって差のある不均質なものであった。特に京都には朝廷の領地が集中していたこともあり、「近世中期以降の民衆にとって、ある意味では民俗的信仰の対象であった」(飛鳥井雅道)という状態が続いていたのである。それを東京遷都によって断ち切るとともに、全国民に共有される天皇像を創り上げること。これが明治初期から中期にかけての重要な課題であった。
その具体的な手段として創り出されたのが「伝統」である。天皇を中心として体系付けられた「伝統」の中に民衆を取り込んでいくことで、自身が「伝統」を介して皇室の歴史と繋がっているという意識を民衆に与え、民衆を「歴史を共有する集団=国民」として育てていくために、明治初期には様々な「伝統」が生み出された。「初詣」という伝統もそのひとつとして位置付けられるのである。
それでは以下、「初詣の成立」の論旨を私なりに再構成してみよう。
まずは明治維新よりも前の元日の過ごし方を見ていこう。大正六年一月十五日付の『京都日出新聞』には「維新前の京都の正月」と題した、以下のような記事が書かれている。
「町屋では元日は戸を閉ぢて一日寝込むので、これを寝正月といつた。恵方棚を作り、にらみ鯛を竈の上に懸ける。鯛は夷の持物で赤は陽を表するからである。正月の活動は二日から始る。書初、謡初、廻札、商始、初乗初皆二日からである。(中略)恵方参りも賑つたが、殊に鞍馬の初寅詣は景気があった。寅の日は本尊出現の日とも、毘沙門天の縁日とも云つている」
元日はどこにも出かけず、家の中で歳徳神を迎えること。それと、近世の初詣と言うべき恵方参りが三が日とは関係なく、十二支に基づいて毎年違う日に行われていたこと。この2点は注目に値するだろう。
それに対して、江戸では屋内で歳徳神を迎える「年徳棚」の存在と共に、元日に「恵方参詣」が行われていたことが天保九年(1838)に刊行された『東都歳時記』に記されている。農村部でも三が日は家の中で休息する地方、元日から年男が神社に参詣する地方など多様な習慣が存在していたことが報告されており、近世の正月の過ごし方は千差万別であったと言える。ただ、一般的には柳田国男が以下のように書いている通り、家の中で歳徳神を迎える場合が多かったようだ。
元日だけは戸をしめ掃除もせず、家にこもって親子夫婦ばかり、和やかに静かに一日を送るのが、古風な正月の幸福であったと思われるのに、人が群がって住むようになると、まず早天から飛び出してやたらに訪問をする
――柳田国男「これからの正月」1941――
では、初詣という習慣はどのような過程を経て社会に定着したのか。1929年に刊行された矢部善三『年中事物考』には以下のように書かれている。
「既にして、元日早旦に、先づ上は宮中に於せられて御神事あり、その大御手振りのまにまに、全国の神社に於いて神事あり、国民の習礼として元旦の神拝がなければならぬ処である。(中略)此の風習は、やはり宮中に於る四方拝に起源を発して居るものらしく」
矢部が言うには、宮中において行われていた四方拝という儀式を国民が真似て作られるのが初詣である、ということだ。この単純な図式をそのまま受け入れることは出来ないが、初詣の成立において官公庁の果たした役割は注目される。
『京都日出新聞』の記事を参照しながら、その成立過程を辿っていこう。
まずは明治十九年の正月だが、大晦日に行われていた祗園社への参詣についての記事で「去年は十二時頃雑踏してお旅町より巡査が人力車を止むる程なりしも、一時過ぎには人足も稀となりたり」とあり、元日の参詣が行われていなかったことを表している。明治三十三年の段階でも「元日は魔が襲ふとて門戸鎖す家多かりしも、二日は皆晴れ晴れしく家門開け放ちたれば人出も従つて多く」とあり、元日は家に籠もる近世の習慣が続いていることをうかがわせる。
しかしその一方、官公庁や諸学校では早くから元日の行事が行われていた。
「また京都府庁は例により諸官員一同参賀に昇庁せしにつき庁前は馬車人力車にてさしも広き門前も暫時は往来を止むるくらいなりし、その他裁判所府立公立の諸学校に於ても例によりて門松注連飾をなし、いづれも新年の飾りをなしたり」
こうした元日の習慣は、学校を通して地域社会に広がっていく。明治二十四年に制定された「小学校祝日大祭日儀式規定」において、正月は「元始祭」として社会全体の年中行事に組み込まれるのである。
http://www1.jca.apc.org/anti-hinokimi/archive/chronology/senzen/shogaku910617.htm
なお、元始祭は明治三年に宮中で創始された新しい祭であることを付け加えておく。
以上のような過程を経て元日に特別な意味が付与されるようになったわけだが、それに伴って明治二十七年以降は恵方を知らせる記述が毎年元旦の新聞に登場するようになる。このことから、元日の恵方参りが一般化したことを知ることが出来る。
その恵方参りのあり方も変化していく。明治三十二年の記事では
「本年の恵方は寅卯の方なり、されば京都の真中六角堂頂法寺よりいへば、東丸太町の熊野社、聖護院お辰稲荷、壇王の東にある法皇稲荷、平安神宮、吉田神社なるべし。(中略)それとも屠蘇に酔ふた人は神棚を仮に家の寅卯の方に移して拝んで置くも差し支えなからん」
とあるように、正月参り=恵方参りという意識がうかがわれる。ところが明治四十年になると
「大人は市議事堂へ、子供は学校に君が代を寿き奉りて帰れば、父子夫婦合携へての神詣で物見湯山(中略)神社にては伏見の稲荷神社、八坂神社、恵方は今宮神社、近くは白雲神社への参詣者多く」
と、「恵方参り」とは別に「神詣」という概念が出現する。しかも「神詣」の対象は官幣大社である伏見稲荷と八坂神社であった。
大正期に入ると「初詣」という言葉が定着するが、それに代わって「恵方参り」という概念が後退していく。大正五年の記事では以下のように書かれている。
「京阪電車の広告では八幡が恵方とあるし、京電の広告では稲荷が恵方とある、大分に方角が違うが、どちらでもエイ方に参詣したら御利益があるに相違あるまい」
長くなったのでまとめよう。
近世以前において正月、特に元日の過ごし方は千差万別であったが、一般的には家の中で歳徳神を迎える傾向が強かったと考えられる。それが、元日に行われる官公庁への拝賀と学校の元始祭を通して宮中行事と結びつき、元日のもつ特別な意味が社会に浸透していく。こうして国家的祭祀としての初詣が成立したのである。
さらに初詣はその成立過程において「物見湯山」的な性格を強めていく。その背景には鉄道会社その他による商業的な狙いがあったと考えられるが、その話については別の機会に譲ることにしよう。
http://d.hatena.ne.jp/tukinoha2/20080104/p1
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近代天皇制の文化史的研究―天皇就任儀礼・年中行事・文化財 (歴史科学叢書)
http://www.amazon.co.jp/dp/4751726706/?tag=hatena_st1-22&ascsubtag=d-1mcoj
作者: 高木博志
出版社/メーカー: 校倉書房
発売日: 1997/02
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酒井徹の日記帳―平和・人権・民主主義―から
■ブログで公表、インターネットで話題に
***の前杉並区議・北島邦彦氏が、山口県岩国市にある椎尾八幡宮に初詣に出かけたことを自らのブログで明らかにした。
椎尾八幡宮は右翼団体・日本会議にもつながる宗教法人・「神社本庁」に所属しており、祭神は応神天皇や仲哀天皇・神功皇后などである。
インターネット上では、「北島邦彦はいつから天皇主義者に転向したのか」などと北島氏の参拝を疑問視する声が上がっており、話題となっている。
■「神社は天皇制とは違う」か
北島氏を批判する意見に対し、「『神社=天皇』ではない」とする反論もある。
「明治政府によって吸収・統合された各地の神々を みんな『天皇制』として拒否する事はない」というのだ。
たしかに、地域の神社の多くは元々は「氏神様」のようなものが漠然と祭られていたところから始まったのだと思われる。
しかし、現在は神社自身によってその祭神が「応神天皇」や「仲哀天皇」であると明示されているのであれば、元々どうであったかにかかわらず、今は「応神天皇や仲哀天皇が祭られている」と見るしかないのではないだろうか。
靖国神社が、
「元々は戦争の犠牲者となった戦没者を祭り、平和を祈願する神社だったのだ」というような意見も、それ自体としては確かにそれらしくはあるわけであるが、現在は戦争を引き起こした張本人であるA級戦犯らが合祀されており、単純に「戦没者を祭り、平和を祈願する神社」と見るわけにはいかなくなっているのと似ている。
■唯物論は「神」を拝む行為とは相容れない
さらに、天皇制云々を脇に置いたとしても、***(北島氏が)、何のためらいもなく神社に参拝し、それを公然とブログで公表するのはいかがなものだろうか。
北島氏が唯物論者ではなく、個人的宗教信念としては神社神道の信者であり、その上で***の政策と手法のみに共感して党に加わっている「神社神道社会主義者」であるというのなら話は別だが、おそらくそうではないのであろう。
北島氏のこれまでの言動を見る限り、彼は原則的な「レーニン主義者」であり、当然 唯物論者であると思われる。
そうであるならば、である。
本来 唯物論とは、この世はごくわずかの狂いもなく物の筋道(物理法則)に従って動いていると考える科学的な ものの見方であるはずだ。
「神」とか「霊」とかの非科学的な存在を信じる考え方とは根本的に相容れない。
そうした神や霊の類を拝んだり信じたりするものではないはずだ。
「神」とか「霊」といったものが実在し、そうした「神」とか「霊」とかにこの世界を動かす力があるなどと信じる考え方は唯物論とは正反対の観念論だ。
「応神天皇」や「仲哀天皇」といった人物(あるいは遠い「ご先祖様・氏神様」であったとしても)は既に物質としては機能を停止している(=亡くなっている)にもかかわらず、なお霊魂が生きて働いていると考えるのも、人の精神の活動を物質から切り離されたものと見る観念論だ。
死んだ人にはもはや意識はない。
神を拝み、これに祈ることによって神の力を借りようとするのは観念論者のすることであって、唯物論者のすることではない。
唯物論者にはただ、生前の死者の言動や業績に思いをはせ、そこから生きる活力や指針を汲み出すことしかできない。
それは、神社に参拝することとは本質的に異なることだ。
■初詣は「しなくても困らない」こと
インターネット上では、
「おまえんとこのテレビは、パナソニックか、シャープか? パナソニックなら、松下資本の犬ということになる」などという乱暴な意見も飛び出していたが、テレビを見ることと神社に参拝することとを同列に論じることはできないと思う。
現代社会でニュースを見、ドラマやアニメやバラエティー番組を楽しもうと思えばテレビを買わざるをえない。
(私は金銭的な事情からまだ家にテレビがないのだが)。
そして現在、家電の生産手段は全て資本家に握られており、そこで働く労働者が一人一票で経営者を選出して労働者自身が職場を運営する労働者協同組合で生産されたテレビというものはまだないわけである。
だから私たち労働者は、パナソニックなりシャープなり、思想信条にかかわらずとにかく資本の手からテレビを買わざるをえないのであって、パナソニックのテレビを買ったからといって松下資本の手先扱いされてしまってはたまったものではない。
しかし神社への参拝については事情が違う。
唯物論の立場に立てば、物質から切り離された「神」や「霊」といったものは実在せず、そうしたものにこの世界を動かす力はないわけだから、神社に参拝してもしなくても別に不都合は生じない。
したい人はすればいいが、したくなければ別にしなくてもいいわけである。
にもかかわらず参拝したということは、自分の主体的な判断に基づいて参拝したということだ。
さらに、単に個人的に参拝しただけでなくこれをブログで公表しているのである。
政治家として、***の指導者として、支持者の模範となるべき人物がこういうことをすれば、当然影響が広がることは予想される。
単に迷信を助長するだけでなく、右翼的姿勢を隠さない神社本庁の立場を強化することにもつながっていく。
■君が代には職務命令でも拒否せよというのに
***は君が代の斉唱はおろか、起立さえも拒否するように呼びかけている。
もちろん、それをとやかく言うつもりはない。
私も高校時代は一貫して斉唱拒否・起立拒否を押し通してきた。
それはひとえに私が皇室制度に反対する共和主義者であるからであり、「君が代」(天皇が日本国の象徴である状態)が「千代に八千代に」続くことを願うことはできないからだ。
***の人々も、(理由は少しずつ違うかもしれないが)同様のこだわりがあるのだと拝察する。
しかし、君が代の起立・斉唱に対しては、たとえ職務命令であっても「40秒間のストライキに決起せよ」と呼びかけている***派の指導的政治家が、他方では何のこだわりもなくあっさり神社に参拝してしまうという精神構造に私はやはり理解に苦しむものを感じてしまう。
歴史をひもとけば、過去にはキリスト教徒の人たちに神社参拝が強制されたこともあった。
創価学会の人たちが、伊勢神宮のお札を祭るよう強制されたこともあった。
そうした圧力に抵抗し、弾圧を受け、果ては獄中で亡くなった人もいるわけである。
他方、現在の北島氏は神社参拝を職務命令されたわけではないはずだ。
参拝するつもりがなければ参拝しなくても誰も文句は言わないだろう。
にもかかわらず参拝する。
***の指導的立場にある(と目される)政治家であり、原則的な唯物論者であるはずなのにそれでも参拝する。
私には今ひとつ理解できない。
もちろん、参拝するしないは北島氏の自由である、という信教の自由は大前提の上での個人的な感想であるのだが。
http://imadegawa.exblog.jp/
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