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『レイシズム・スタディーズ序説』鵜飼哲・酒井直樹・テッサ・モーリス=スズキ・李孝徳/前田朗Blog から

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レイシズム研究に学ぶ(1)

鵜飼哲・酒井直樹・テッサ・モーリス=スズキ・李孝徳『レイシズム・スタディーズ序説』(以文社、2012年)

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<人種主義(レイシズム)が立ち現われる現場は、ある社会的な関係が人体の特徴などを通して反照し、私と他者の自己画定(アイデンティティ)を同時に限定するときである。この投射されたアイデンティティ・ポリティックスは現代のあらゆる社会関係に髄伴する。本書は、この視点から、近代化とグローバル化で不透明化された現代を読み解く壮大な試みである。>

<目次:
レイシズム・スタディーズへの視座
グローバル化されるレイシズム
移民/先住民の世界史-イギリス、オーストラリアを中心に
共和主義とレイシズムーフランスと中東問題を中心に
近代化とレイシズムーイギリス、合州国を中心に
新しいレイシズムと日本 レイシズムの構築


21世紀に入って、日本でも、世界でも、ますますレイシズムが噴出し、蔓延している。2001年のダーバンでの人種差別反対世界会議とダーバン宣言は、まさにこの事態を予見し、予防するための挑戦だったのに、現実はダーバン宣言を吹き飛ばしてしまう。戦争の20世紀から平和と人権の21世紀への期待は裏切られ、テロとの戦いの21世紀、人種差別、民族紛争、ナショナリズムと排外主義の21世紀が現出している。そうした中、本書は世界史におけるレイシズムを総体的にとらえようとする意欲的な試みである。

冒頭の酒井直樹「レイシズム・スタディーズへの視座」を読んだ。随所に引用したくなるような文章が続く。近代世界史におけるレイシズムを生み出した構造、同様にその構造に組み込まれた日本におけるレイシズム再生産構造が鮮やかに分析される。ポストコロニアルのレイシズム研究かと思ったが、その一面とともに、現代におけるグローバル・レイシズムが課題とされる。植民地近代が産み落としたレイシズムと、現在のグローバリゼーションのもとにおけるレイシズムと。密接なつながりを持ちつつも、質的な変容も見られる両者をどのように位置づけ、関連づけて理解するのか。

アメリカによる東アジア支配におけるレイシズムを剔抉し、同時に、その枠組みに参入しながら日本自身が再生産している日本的レイシズムの関係を問う部分に一番関心を持った。この点を、私は「日本の自己植民地主義と植民地主義」という奇妙な言葉で表現してきた。同じことを、酒井は「西洋と文明論的転移」と表現している。一つの例証として「日本人論」がとりあげられる。

<「日本人論」に現れた語りの位置の固定化によって追求されるアイデンティティ・ポリティックスは、日本人として自己画定する者を植民地的な権力関係の下に捕縛する典型的なオリエンタリズムの言説である。さらに、この知識の生産の言説によって、「西洋とその他」という最も典型的な植民地体制が維持されるのであり、オリエンタリズムの言説は人種主義のあり方として私たちの研究語彙に登録しておかなければならない。>

西洋植民地主義にからめとられ/便乗した日本の東アジア植民地主義は、アイヌモシリ、琉球、台湾、朝鮮半島、南洋諸島、「満州」へと肥大化していき、敗戦によって地理的空間的には一気に縮小したが、植民地主義精神、人種主義は見事に温存された。それはいま「上品な人種主義」として日々、練り直されて登場している。

本書をゆっくりと読みながら、人種主義、人種差別、排外主義について考えていきたい。ダーバン宣言をどうやっていま一度手元に手繰り寄せることができるのか。東アジア歴史・人権・平和宣言の挑戦をどのように活かすことができるのか。そして、現代日本におけるヘイト・クライムといかに闘うのか。
http://maeda-akira.blogspot.jp/2012/10/blog-post_19.html
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(2)
さて、テッサ・モーリス=スズキ「グローバル化されるレイシズム」は、2010年2月に本願寺札幌別院で行われた「東アジアの平和のための共同ワークショップ」での講演記録である。続く、テッサ・モーリス=スズキ「移民/先住民の世界史――イギリス、オーストラリアを中心に」は、李孝徳によるインタヴュー記録である。

グローバル化されたレイシズムにかかわる3事例として、第1にオランダの極右政治家ウィルダースとその運動、第2に2005年12月にオーストラリアで起きた「クロヌラの暴動」、第3に在特会である。それぞれの具体的事例を通じて、各地のレイシズムの減少の特徴と共通性が明らかにされる。

「21世紀にグローバル化されつつあるレイシズムを検証してみると、それぞれの国のレイシズム運動の中にある類似点に気がつきます。それぞれの国でのレイシズム運動を誘発する、経済的・社会的な背景は同様だ、といってもそれほど間違っていないかもしれません。またそういったレイシズム運動がつくりだす他者、よそ者に対するステレオタイプとかジェンダー的な意味づけには、深い類似性が認められる。」

「われわれ」と「かれら」を対置し、「かれら」の責任を論難し、「われわれ」の問題を回避し、「かれら」に「出ていけ」と迫る「典型的なフレーズ」である。

その通りである。ただし、上の引用の「21世紀にグローバル化されつつある」を削除しても、同じことが言える。

レイシズムへの対抗策として、

1 社会的格差が要因なので、富の再配分。

2 レイシズムに対抗する法制度の整備。

3 反差別教育。

4 メディアの重要性。

これらについて、オーストラリアなどでの具体的取り組みも紹介されている。

「問題の解決は他者(かれら)にはありません。じつは他者(かれら)も、同じ経験をして、同様に苦しんでいるのです。ですから他者(かれら)を排除するのではなく、連帯し手をつないで、グローバルに展開される経済・社会問題に立ち向かう必要がある、と私は信じます。それは同時に、グローバル化されるレイシズムに対抗する方法なのですから。」

これもその通りで、納得。とはいえ、その一歩先を聞きたいところだ。問いに問いをもって答えている印象だからだ。

インタヴューでは、イギリスからオランダ、ソ連、日本、韓国、オーストラリアへと、研究を進め、移動してきたテッサ・モーリス=スズキの問題関心、知見が披瀝され、興味深い。グローバル化したレイシズム研究にまさに適任の研究者であり、幅広い関心とすぐれた分析を読むことができる。

オーストラリアでアボリジニ権利運動にかかわってきたゴードン・マシューズが自分のルーツを探ったところ実はアボリジニではなく、スリランカ系とわかった時のエピソードも紹介されていて、さらに興味深い。

アイヌと日本についても、『辺境から眺める』の著者だけあって、アイヌモシリから日本を逆照射する視点が明確である。

フランスの普遍主義に隠れ潜むエスノセントリズム(自民族中心主義)の指摘も重要である。納得。もっとも、もう少し議論を深めてほしかった。今後の楽しみでもある。
http://maeda-akira.blogspot.jp/2012/10/blog-post_23.html

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(3)
さて、鵜飼哲「共和主義とレイシズム――フランスと中東問題を中心に」は、李孝徳によるインタヴューである。

テッサ・モーリス=スズキが、フランスをはじめとするヨーロッパの普遍主義と人種差別を登記したのに続いて、鵜飼哲は、フランスにおける人種差別を鮮やかに抉り出す。アフリカとイスラム、移民と郊外。現象をいかに記述するべきか、その前提に立ち返りながら、人種主義の台頭と、それに対するSOSラシスムに代表される反人種差別の対抗の中での揺れ動きが語られる。一方では、「ブールの行進」のように、「自由・平等・博愛の国だから、たてまえとしてであっても、反レイシズムで人を集めれば集まる」。だが、そのフランスに根強くはびこるレイシズム。

「ユダヤ系知識人の変貌」も深刻だ。「いまやある種のユダヤ系知識人がともするといちばん人種主義的だったりします」。アラブ対ユダヤという二項対立に問題を矮小化することのないよう、ジャック・デリダ、ヴィダル・ナケ、マクシム・ロダンソンなどが「接合」の役割を果たしていたが、その後のパリの言論状況は悪化しているという。

李孝徳が述べているが、名著『人種差別』のアルベール・メンミが『脱植民地国家の現在――ムスリム・アラブ圏を中心に』に変貌している。李は「無残というほかない壊れ方」という。なるほど、そうだったのか、おかしいと思ったんだ、と思う。
「フランスを中心にして考えると、逆説は、植民地主義的レイシズムの総本山である宗主国のほうが、『われわれは国民概念から種族の規定を外している。独立した第三世界の国は種族主義に囚われたままであり、ゆえにレイシスト的だ』というふうに手品みたいに議論をひっくりかえしてしまうことです。独立の前提になっている国民概念まで含めて、先進国=宗主国から植民地=第三世界へ輸出されたものであり、その枠のなかで植民地解放や民族独立をやるほかなかったという歴史的必然性を考慮して問題を立てないと、いつのまにか変な話になってしまいます。」

「フランスの共和政の根幹にある何かを破壊しなければその先は見えないと思います。フランス革命やフランス共和政は、否認されたかたちでキリスト教的な核を保持している。カトリシズムの問題であり、ユマニスム(人間主義)の問題でもあります。」

日本のレイシズムを考え直すために、鵜飼は、1903年に開催された大阪の博覧会における「学術人類館」事件を取り上げ、西洋中心主義の土俵に奇怪な形で乗ってしまった日本と、沖縄の関係を論じる。1975年の沖縄海洋博の際にも議論となった「人類館」事件は、現在の沖縄差別を問う際に、まさに参照枠の一つとなる。
http://maeda-akira.blogspot.jp/2012/10/blog-post_27.html

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(4)
さて、今回は、酒井直樹「近代化とレイシズム――イギリス、合州国を中心に」(聞き手:李孝徳)だ。冒頭から酒井の個人史が語られる。イギリスでの経験と知識をもとにレイシズムと階級の問題、差別の不可視化、マルクス主義と人種問題など、論点が次々と登記される。

次に日米戦争が日米双方の帝国主義に与えた影響が論じられる。ここは重要。1910〜20年代に激しいレイシズムが席巻し、ナチス・ドイツの範とさえなったアメリカが、いちおうは多文化主義に転じたのは、日本との戦争のためだとされる。帝国主義間において正当性を主張するには「反人種主義」を政策とする必要がある。「欧米の人種主義からアジアを解放する」という日本の主張はいかに欺瞞であれ、いちおうの正当性を獲得しえた。ところが、日本はナチス・ドイツと組むことによって反人種主義の化けの皮がはがれてしまう。大西洋憲章以後のアメリカは表面的には反人種主義の優等生としてふるまう。実際には国内外で人種差別政策を推進したにもかかわらず、表面的には、そして公式的にも、いちおうは反人種主義を先導する位置に立った。この転換と揺れ動きの中に日米双方の問題がごった煮のように詰まっている。ここを解きほぐして、次の議論につなげることが重要だ。

次に勉強になったのは、サイードの『オリエンタリズム』のインパクトと、アメリカにおけるすさまじい批判。そして、9.11の衝撃と左翼知識人の沈黙。この二つの出来事に見られるアメリカ知識人のレイシズムの根深さと、にもかかわらず、それを乗り越えようとする論脈の存在。そうした話題を通じて、レイシズムを分析する方法論が語られる。

もう一つ、加害者と被害者の逆転も指摘される。

「人種主義の暴力は人種主義の被害者に対してだけ発現するのではなく、被害者を加害者の立場に追いやるわけですよね。被害者になりたくなかったら加害者になれという論理が、社会的に弱い立場におかれた者たちの行動指針になってしまう。ですから、被害者と加害者を本質論的に分けるのではなく、被害者がいつでも加害者になりうることの力学を解析することが必要なわけです。」

この指摘は、多くの場面で語られてきたことだが、本当に重要だ。いつも繰り返し立ち返るべき論点だろう。被害者が加害者になってしまう現象は、ヘイト・クライム研究ではよく指摘される。

加害者が被害者を装うのも、同型の論理だ。犯罪学者バイアー、ヒッグズ、ビッガースモ、アーミッシュに対するヘイト・クライムについて「非難者に対する非難」を指摘しているという。「被害者と称する者こそ犯罪者だ」という倒錯だ。ここで加害者は被害者になりすますことができる。ブライアン・レヴィン編著のヘイト・クライム研究の中では、「防衛的ヘイト・クライム」が説かれている。たとえば、白人集住地区に黒人が転居し、流入してくると、「奴らが我々の町を侵略してくる。我々の町を守れ」という「防衛意識」が強調され、そこから差別と排外主義が始まる。よそ者を追い出すレイシズムだ。

被害者になれば、心置きなく差別できる。被害者になったほうが勝ち、なのだ。異常な差別集団の「在特会」も「在日特権を許さない」という屁理屈を掲げている。どこにも存在しない特権を批判し、在日特権のために日本人が被害を受けているという途方もない物語がつくられる。被害者を装いながら、圧倒的な弱者・少数者に対して激しい憎悪をぶつけ、排除しようとする。この心理と論理を解明することも大切だ。
http://maeda-akira.blogspot.jp/2012/10/blog-post_5349.html

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(5)
さて、今回は、鵜飼哲、酒井直樹、テッサ・モーリス=スズキ、李孝徳による座談会「新しいレイシズムと日本」だ。これで本書のすべて。ただし、巻末にエティエンヌ・バリバール論文「レイシズムの構築」が収録されているが。

座談会は、レイシズム分析の射程、日本のポストコロニアル、血統主義と生地主義、生物学的レイシズムなどをめぐって進行する。日本の国籍法や、移民政策も問い直される。イギリスと日本という帝国の退却戦の差異も登記される。多文化主義の難しさも。それとの関連で在特会という病理現象も分析されるが、被害者意識に着目している。加害者が被害者意識に突き動かされて、さらに加害に走る。ヘイト・クライムでは「防衛的ヘイト・クライム」と呼ばれる。よそ者が我が町にやってきた、という意識が、次には我が町が汚染される、取られる、文化が変わるなどの恐怖になり、犯行に走る。

日本には差別撤廃法がないこと、人種差別撤廃条約を批准しながら怠慢であることも指摘される。その通りである。さまざまな話題が取り上げられ、読み手にとってはおもしろい座談会である。

本書全体に学ぶことで、日本における反レイシズムのために、何をどう分析し、運動につなげていくか、考えることがたくさんできた。課題を次々と提示してくれるという意味で、スリリングな著作である。再読の必要がある。
http://maeda-akira.blogspot.jp/2012/11/blog-post_7100.html


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